コラム

このページでは、管理者の情報を発信するコラムを掲載します。(平成27年9月より変更)

2018年3月 福岡・博多の旅
静岡大学が中心となって実施している原子力規制人材育成事業「放射線安全の ための大学間連携放射線計測専門家・教育者育成プログラム」の総合討論が、 九州大学筑紫キャンパスで3月14日〜16日まで開催された。15日には 再稼働が予定されている佐賀県の玄海原子力発電所を見学してきたが、今回の お話は最終日の会議終了後に訪れた 「照和」について。
午前から続いた会議は午後2時に終り、帰りの飛行機の5時まで時間があったので 行くことにした。博多には何度も来ているのに、そのときは時間がなくて寄れ なかった。ここは、ライブ喫茶。デビュー前のチューリップ、海援隊、甲斐バンド 等のグループが、博多で活動していたときの拠点。中学生の時に読んだ甲斐よしひろ 著「荒馬のように」や、ラジオで甲斐さんが良く話していた伝説の喫茶店だ。 一度店を閉めたのだけど、後に復活していたのも知っていたが、やっと行くことが できる。しかし、博多駅に着くと、もう2時半。飛行機のチェックインは4時半 なので、後2時間だ。せっかく持ってきたカメラをホテルに預けた荷物に入れて しまった僕は、取りにいくことに。
季節外れの生暖かい風が吹く中、幸い雨は上がっていたので、ホテルまで小走り にカメラを取りにいく。荷物の中からカメラを取り出し、慌てて博多駅に戻り、 地下鉄に乗って天神駅に降りる。事前に印刷した地図を見ながら、照和を目指す。 ところが、近くのマックはあるけれど、照和がない?。そう言えば、ランチは 3時までだっけ?。時計を見ると、あと5分。小走りながら、地図と周りを 見比べる。1階に眼鏡屋があると書いてあるけど、眼鏡屋はいっぱいあるし、どれ?。 と、ふと角の眼鏡店の横にある看板を見ると「照和」の文字。あった!と思って、 早速階段を降りて地下へ。
ドアを開けて「こんにちは、ランチまだありますか?」と尋ねる。奥のカウンター にいた女将さんがにっこりと笑って「いらっしゃい、ランチ大丈夫ですよ。 メニューにあるものは何でもできますよ。」と返答。あぁ良かったと思って、 席に座ると「すみません、パスタランチじゃなくて、特製カレーをお願いします。」 と汗を拭いながら女将さんに伝えると、 「今日は暑いですね。辛いのがいいですか?」と逆に聞かれ、「はい、辛いの 大好きです」と思わず笑いながらお願いした。BGMにチューリップが流れていた。
ちょっと待っていると、女将さんがカレーを運んできてくれた。その時、 「店内の写真を撮ってもいいですか?。僕、甲斐バンドのファンを40年 しているので…」と伝えると、女将さんは「甲斐さんね。昨日も甲斐さんの ファンの女性の方がいらしたわね。」、「甲斐バンドのファンは女性が多い ですが、僕みたいおっさんもいますよ。」と笑って写真を撮った。


気が付いたら、女将さんが甲斐バンドのファーストアルバム「ライムライト」を 掛けてくれた。デビュー曲の「バス通り」や「裏切りの街角」が流れる中、 ちょっと辛めのカレーが旨い!。ゆっくり食べたいのだけど、時計を見ると、 あと1時間。しかもホテルに荷物をしっかり残してきた僕は、また取りに行か ないといけない。地下鉄は、福岡空港直結なのを忘れてた…。なので、じっくり 味わうこともできず女将さんとも会話もせずに、黙々とカレーを食べた。
カレーを食べ終わりコーヒーを飲みながら汗を拭っていると、女将さんが 「今日は暑いですね。もうすぐ博多は桜が咲くようです。」と声を掛けてくれた。 「仙台から来ていて、飛行機の時間が迫っているので、慌ててました。仙台も3月 下旬には桜が咲くと思います。ごちそうさまでした。」とお勘定をしようとすると、 レジ付近にふとポストカードがあるのをみつけ、それもお土産に購入した。 「今日の夕飯は遅めになりますね。仙台までお気をつけて。今日がいい一日で ありますように。」と優しい言葉を頂いて、店を後にした。
ドアの外を見渡すと、階段にいろんなポスターや看板があった。ここで、甲斐 バンドやチューリップが青春時代を過ごしていたのかと思うと、感動に浸りたい ところなのだが、そそくさを天神駅に戻りホテルへ向かっていったのである。 (2018.3.18)


2017年7月 TAUP2017 サドバリー・カナダへの旅
カナダのサドバリーでTAUP2017が開か れた。SNOLabがあるサドバリーは2回目の訪問。1回目は Neutrino2000が 開かれた2000年。あれから17年が経ってしまった。前回は会場の Laurentian UniversityにあるResidenceだったけれど、今回は無謀!にも ダウンタウンのホテルを予約。他の日本人研究者はOrganizerが推薦したホテル に宿泊していたので、会場から遠くても送迎のバスがあったのだけど、 勝手に他のホテルを予約した僕は、自力で大学まで通わなければいけない。 日本でローカル情報を調べて、市バスのスケジュールや運賃を調べていたので、 それほど心配していなかったが、いろいろなハプニングが起きた。
まず、仙台空港から成田空港まで全日空で向かったのだが、天候の影響で15分 遅れ。実は、成田での乗り換えに1時間半しかなかったので、ちょっと短いかも? と思ってた矢先なので、この15分はかなり痛手。成田到着後ダッシュで国際線 出発ロビーに向かい、送ってあった荷物を受け取ってカウンターに向かうと、 受付アテンダント曰く「荷物を持ってこちらに来てください」と、案内された 先はロビーの真ん中にある手荷物運搬エレベータ。そこで、手荷物をスタッフに 渡して、「今度は走って付いてきてください。」とファーストクラス用の セキュリティチェックを抜けて、出国審査場へ。「ここからはお客様ご自身で 交渉して頂いて、出国審査を受けてください。」だと。あ!、夏休み直後の 7月21日、いわゆる出国ラッシュで大混雑。手っ取り早く、近くの列の先頭の人に 「すみません、飛行機の出発が近いため先に行かせてください」と言うと、 中国の人だった。慌てて英語で話すと、笑顔でお先にと手招きされ、 ここでアテンダントとお別れ。何とか間に合った…。
約11時間のフライトでトロントに到着すると、一旦手荷物を引き取ってから、 国内線のカウンターに行くことに。そこで、ターンテーブルで待っていると、 悲惨な僕の荷物が出てきた。

あまりの姿に絶句。何とか引っ張りながら、税関を通って国内線カウンターへ。 荷物を預けて、出発ロビーで待っていると、梶田さんが奥さんと一緒に 来られた。サドバリー空港で事情を話すと、荷物を見て 「本当にひどいことになってるね」。えらい旅の始まりだった。
気を取り直して、バスに乗って大学まで行ってレセプションに出よう。出かける 前にホテルのおばさんにバスの乗り方を聞いて、前乗り現金払いバスターミナル で乗ることは理解できたが、どうやって降りるのを運転手に伝えるのか?。う〜ん、 とりあえず乗ってみよう!と大学までのバスに乗車。なーんだ、ちゃんとボタンが ある!。アナウンスもあるし、全然問題なし!。兎に角、運転手のおじさんが明るい。 そうこうしていると大学に到着。帰りのバスから、湖も見える。

街の人たちも良く喋る。ただ、1回3ドルはちょっと高いので、10回券を買おうと 思って、薬局に入っておばさんに頼んだら、あっさりゲット。ついでに 水を買おうと「water please]」と言うと「what?」全く通じない。10回くらい 「water」「acqua minerale」「agua」等を繰り返して、やっと通じた。そっか、 日本人なんて全くいないから、発音をかなり気をつけないと通じない。
会議期間中に、SNOlabに行く機会があった。神岡と違って地下へエレベータで 降りる立て坑なので、アクセスが大変。エレベータ降りてからも、蒸し暑い坑道を 10分くらい歩かなければいけないし、下着を全部脱いでシャワーを浴びて借り物の 下着とクリーンウェアを着なければ入れないなど、滅茶苦茶。これくらいしないと 極低バックグランドにならんのね。いくつかの実験サイトを見学した後、ご本家の SNOを見学。

会議の終りに差し掛かった頃、バンケットがあった。大学とは離れた場所なので、 Sudburyの街を探索してから、バスに乗り込んで移動。何とか会場に到着して ディナーの開始。名物のサーモンのメイプルシリップ焼きが今一つ。醤油が 欲しい。帰りの飛行機の中からオンタリオ湖を見ながら帰路に着いた。(2017.8)


2015年9月 トリノ旅行
イタリアのトリノでTAUP2015が開か れた。約500名の参加者が、5日間にわたって繰り広げられたニュートリノや暗黒物質 の物理、宇宙物理のセッションで議論を行った。かなりスケジュールはタイトだった ので、ゆっくり市内を観光する時間はなかったが、初日と最終日に少しだけ歩いて みた。
まず、訪れた場所は、中心市街から少し離れたとことにある自動車博物館。地下鉄に 乗って、最終のリンゴット駅で降りる。地上にでると、まず目に止まるのが旧 フィアットの工場跡を利用した NHホテル。 非常に大きな建物で、屋上に試乗車のテストコースがあるらしい (倉戸先生情報)。こんなに近いなら、宿泊はここにすれば良かった…。左にNHホテル を見ながら北へ数百メートルほど歩くと、大きなスーパーがあった。何だろうと 思って中に入ると、長町モールを半分くらいにした地上1階地下1階の食品売り場。 食糧品なら大概のものは揃いそう。お土産も買えそうなので、チェック。後で調べ たら、この店はイータリーという高級スーパーだった。ずっと探していたワインも 見つかったので、これは最大の収穫!。帰りに寄ろうと思い、まずは博物館へ。 交差点を右折してポー川沿いへ向かう。5分ほど歩くと、突然、近代的な建物が 現れた。 自動車博物館である。 もともとアルファロメオの博物館だったそうだが、 改装してイタリア国内の自動車メーカーの歴史を学べる博物館に生まれ変わった。 12ユーロ(高い!)を払って、2階から中を散策すると、1930年代のクラシックカー からフォーミュラーカーまで、これぞとばかり展示されていた。なかでも、僕の愛車 156の先代の 155のDTMカー は、流石にかっこいいと思った。
最終日に、トリノ市街へ歩いていった。真っ先に向かったのは、駅から北に位置する ポルタノヴァ広場。 有名な将軍像を見ながら、さらに北上すると、 サボィア家の王宮が見えてきた。夕方だったので、あまりゆっくり中を見学 できる時間はなさそうだったけど、せっかく来たのだからと思って6ユーロ支払う。 中は、豪華絢爛の装飾品と部屋。特徴的な階段を抜けると、 武器庫の回廊に入った。中世の鎧から近代の銃まで、王家が集めてきた至宝が 集まっている。日本の刀が紹介されていたのも、なるほどである。王宮を後に、横に あるドウォモやポー通りを散策して、夕食に向かった。
最終日の夕食に向かった店は、こちらに来る前にwebで探して、「安くてうまい!人気 店」と評判の L'Acinoだ。実は、会議の中日に一度訪れたのだが、本当にお客さんでいっぱいで 断られてしまい、ならばと最終日に予約を入れたのである。おかげで、夜7時半と いう早い時間も手伝って、ゆったりとした雰囲気の中で食事ができた。店の方は、 変な日本人相手で戸惑ったみたい。マスターが気さくな人で、僕の肩をポンと叩き ながら、言葉は通じないけど笑顔でコミュニケーションしている。スィンコは残念 ながらなかったので、マスターはウサギのすね肉を奨めたのだが、適当な牛ステーキ を注文。それは、僕にとってはどうでも良くて、この店でどうしても食べたかった のが、 タヤリンというパスタ。ミートソースベースの細麺パスタだとは聞いていたが、 この店のタヤリンはイタリアでも絶品との噂だった。白ワインを注文して20分ほど すると運ばれてきた。他の人達は、いろんなパスタが食べたいというので、タヤリン 以外に2種類を注文してシェアしていたが、僕はこのタヤリンを1人で1人前食べた。 なるほど、これは絶品。他の人たちも、食べてみて納得。他のパスタも地元料理で 美味しいみたいだけど、このタヤリンは一段上。たぶん、日本では味わえない食感と でもいうべきか、すごくゆでてあるにも関わらず、麺がしっかりと生きている。 美味しいラーメンの麺に近いというか。汁がない分、食感が食べ終わるまで持続して いたのである。
夕食後、L'Acinoからホテルのあるポルタノヴァ駅まで15分ほど歩く帰り道、 とても
綺麗な広場に出会った。北部ヨーロッパの典型的な雰囲気で、ローマやナポリ とは明らかに違う印象。新婚旅行で来たミラノと同じような、ドイツやオーストリア などの中世の欧州が感じられる街だった。
NHホテル 自動車博物館 155のDTMカー ポルタノヴァ広場 サボィア家の王宮 武器庫 L'Acino タヤリン 広場

2015年8月 甲斐バンドとの出会い
中学に入ってしばらくすると、良く木曜の夜9時からTBS系列で放映されて いた「ザ・ベストテン」を見ていた。姉や母親が歌謡曲好きだったからかも しれないが、時代は丁度ニューミュージックが流行りだし、原田真二や八神純子 などの若手のシンガー&ソングライターが次々と登場した。同じ頃、 「コッキーポップ」という番組も始まって、様々なニューミュージックの アーティストを紹介していた。たまたま、ポプコンで優勝した世良正則と ツイストがコッキーポップに出演すると新聞の番組欄に書いてあったので、 僕はカセットに録音しようとして、コッキーポップのオープニングテーマ曲の 「あんたのバラード」を入れていた。テーマ曲が終わった瞬間、僕は世良達が 出てくるのだと思っていた。しかし、僕の目の前に現れたのは、世良達とは全く 違う4人のグループだった。
彼らは、いきなり聞いたこともない曲を奏で始めた。図太いサウンドのギター がコードを刻む。掛け声とともに、ドラムがリズムを取り始める。客の姿は 見られないので、明らかにスタジオで自分達だけで演奏している感じなのだが、 彼らはライブ感覚で「きんぽうげ」を 演奏し始めたのである。そのバンドこそ、それからの僕の人生を左右した 「甲斐バンド」だった。僕はテレビの画面を食い入るように見ながら、 続く「そばかすの天使」と「氷のくちびる」の演奏を聞いていた。 ニューミュージックとは明らかに違う、本物のロックを見たのである。
後にサザンオールスターズの「勝手にシンドバット」やCharの「闘牛士」などが 登場していた時期でもあり、日本にもロックサウンドが行き渡り始めた時代でも あった。しかし、ロックンロールとは異なる、甲斐バンドのハードメロディの サウンドに完全にやられてしまった。実は、彼らのカテゴリは、最初はフォーク だった。デビュー曲の「バス通り」は数十万枚のスマッシュヒットだが、 これは完全にフォーク。セカンドアルバム「英雄と悪漢」に録音された 「らせん階段」や「ポップコーンをほおばって」などは、音源はフォークなの だけど、ライブでは完全にロックサウンドであった。そう言えば、サード アルバム「この夜にさよなら」に収録された「きんぽうげ」や「氷のくちびる」 だってフォーク調。つまり、甲斐バンドは、この時期にフォークからロックへの 転換期であって、丁度僕の感性とマッチしたのではないだろうか。(2015.8.19)

2015年7月 音楽のはじまり
音楽に興味を覚えたのは、実にひょっとしたことだった。それまで、あまり 音楽には興味がなかったのだが、時にお気に入りになるの曲があった。 小学校3年生のときに見ていたアニメ「デビルマン」のエンディング の曲 今日もどこかで デビルマン が異常に好きになってしまい、最終回を テープレコーダに録音していたりした。また、4年生のときだったか、 キカイダーマンを見ていて、突如ギターが欲しくなって、親にクラシックギター を買ってもらったりした。しかし音楽教室に通うほど好きでもなく、その後は ギターも放ったらかしにしていた。
ところが、6年生になってから、洋楽に興味をもつようになった。 当時、BCL(海外の短波ラジオ放送を聞いて、放送の内容を書面に書いて放送局 に送ると、ベリカードがもらえるので、それをコレクションする趣味)に夢中に なってしまい、AMやFM放送も頻繁に聞くようになり洋楽に触れる機会が増えた。 その中で、何故かベイシティローラーズにはまってしまった。中学に入ると 英語を勉強することになるので、早く英語に触れたいと思ったのかもしれない。 1977年に発表された It's a gameは、レコードや雑誌に載っていた歌詞を当然覚えたが、演奏したい と思い、エレキギターを買うきっかけとなった。彼らが実践倫理記念館に公演に 来たとき、中1だった僕は父親に頼んでコンサートに連れて行ってもらった記憶 がある。そのとき、アンプの向うに隠れて影の演奏者がギターやベースを弾いて いたのを見て、「何だエリック以外は誰も弾けねぇのか」と思ったりしたのも 懐かしい思い出の一つ。(2015.7.17)

2015年6月 再開
東日本大震災から4年。この間に、信じられないことが沢山起こった。勿論、 震災で被災された方々の心情は計りし得ないものであるが、全く同じくらい の個人的な問題が起こり、本当に辛かった。詳細は割愛させて頂きたいが、 唯一言えることは、自分の信念を曲げることはできなかったこと。今考えれば、 少し青臭かったのかもしれないけど、これも人生なんだと思えるようになった のは、50歳を迎えたからかもしれない。
音楽については、新たな発見があった。詳細は追々ご紹介するとして、再開した 今月は、トライアンフの「その後」について。1989年にリック・エメットは バンドを離れるが、、残ったメンバーは新たなギタリストを迎えてアルバムを 発表するも、全くぱっとせず、その後は沈黙し、解散したと思われた。一方の リックは、ブルーズやジャズなどのエッセンスをちりばめた1990年の名盤 「Absolutely」(このアルバムに収録された Heaven only knows は、名曲!)に続く、1995年の「The Spiral Notebook」を発表していた。 ただ、ゲイリー・ムーアと同じような路線を行く巨匠たちの考え方に不満を覚え、 それ以降のアルバムは購入していなかった。リックはどうしているのだろうと、 ずっと思っていた。
最近になって、You Tubeによりリックの活動は知っていた。何だかトライアンフ 時代の曲を演奏しているようだった。ところが、昨年12月、ふとしたことで、 「トライアンフ」が2012年7月にスウェーデンで開催された音楽祭で再結成 していたことを知った。2013年7月にストックホルムに行ってたのに、こんな 音楽祭があったとは全く知らなかった。久々に聞いたオリジナルメンバーが演奏 する 「Lay It On The Line」 は、リックの声がどうのこうのではない、魂の こもったすばらしい演奏だった。これを聞いて、この4年間の戦いは、決して 無意味なものではなかったことが、何となくわかった気がしている。(2015.6.11)

2011年4月 東日本大震災の発生
平成23年3月11日、東日本大震災が発生した。丁度、神岡に滞在しており、 少し揺れを感じて「最近、多いな…」と思った矢先、まさかと思ってTVをつけると、 「宮城県沖で大地震が発生…」。真っ青になって、家族に電話したが、全く通じない。 「うそだろ…」慌ててTV会議室に駆け込み、TVで情報を集め回った。ニュースで生中継 された名取市や仙台空港、そして今年になって初めて訪れた気仙沼や女川地域への 津波の映像は、とてもこの世のものとは思えない惨劇だった。あの店や喫茶店が…、 言葉を失った。その間にも、震える手を抑えながら、1分おきに嫁の携帯に電話して も、返答がない。しかし、向うの発信から1時間遅れで、嫁から「大地震。大変!」と のメールが来た。何とか大丈夫なのか? しかし、それ以降、全く連絡なし。仙台に 帰る手段もなく、兎に角連絡を取ろうと必死だった。そして、3日目に、公衆電話 から電話「大丈夫だよ」。良かった…。でも、被害に会われ、大切な家族を失った 方々を思うと素直に喜べない。今できることは、復興に向けて、着実に進むこと。 今暮している地域の周りの人たちはお年寄が多いので、食事などの援助を嫁がやって くれている。亡くなった両親を見てくれているような…。大学も余震があって、まだ 大変。今回は曲の紹介をお休みにします。(2011.4.8)

2011年3月 オジー・オズボーン Blizzared of Ozz より 「Mr.Crowley」
1983年に大阪大学に入学するまで、オジー・オズボーン(Ozzy Osbourne)の ことは、雑誌で見掛ける以外では曲さえまともに聞いたことがなかった。彼は ブラックサバスのボーカリストだったが、彼が抜けた後に、元レインボーの ロニー・ジェイムス・ディオが加入したこと程度しか知らなかった。阪大の軽音 に入って、何となく集まったメンバーの中で、キーボード奏者の鈴木君が 「オジーの曲、やらない?」と持ってきたのが 「Mr Crowley」 だった。テープを聞いた瞬間、目頭が熱くなった。ギター ソロはそれまでに聞いたものとは全く違い、詩情を起伏のある旋律で奏でる印象。 演奏していたのは、ランディー・ローズ(Randy Rhoads)。彼の名を知るのは、 この時が初めてだった。それから、貧乏学生の身でアルバムや雑誌を揃えるのは 大変だったが、それ以上にショックだったのは、既にRandyはこの世にいなかった のである。彼は1982年3月19日に、飛行機事故により亡くなっていた。 しかし、感情溢れるRandyの奏法を習得しようと必死に練習した。「Mr Crowley」を 始め、彼の作曲した曲は、今でも心に残る素晴らしい名曲ばかり。もうすぐ19周忌 ですが、Randyの優しい笑顔に冥福を祈ります。(2011.3.6)

2011年2月 追悼 ゲイリームーア Run For Cover より 「Out in The Fielda」
2011年2月6日、僕が高校生の頃からのカリスマだったゲイリームーアが 他界した。昨年の3月には父を、先月の18日に母を失い、悲しみから立ち直る 間もなく、また訃報が届いた。最初に彼のプレーを聞いたのは、グレックレイクの ソロアルバムでの 「Nuclear Attack」だったが、もっとも衝撃的な曲が、この 「Out in The Fields」 だった。北アイルランドの宗教紛争を テーマに、憎しみから愛と真実を求める人間の心を信じた永遠の名曲である。 フィルリノットとともに安らかに。(2011.2.9)

2011年2月 トライアンフ Surveillance より 「Never Say Never」
1987年に長島研究室に配属されて、本格的に素粒子・ニュートリノの研究を 行うため大学院に進学した。現在の神岡施設長の鈴木先生のもとで、InP半導体 検出器の開発を行っていたが、全然信号が見えないので、ある日、検出器を覆って いたガラスカバーをはずして、アルファ線を当ててみると、一つだけ信号を 出す素子を発見した。その素子は空乏層は厚くないけれど、不純物濃度が最も 少ない素子で、後にガンマ線にも反応することがわかった。半年間、何も信号 も見えないので、僕も鈴木先生も諦めかけていたときだったので、信号が見えた とき、鈴木先生は「こんな体験は、何年か振りだよ!」と喜んでくれた。これが 研究なんだと感じた最初の瞬間だった。当時、CDが発売されたばかりで、 アメリカで始まったヘビーメタルブームの先駆けだったBon JoviやWhitesnake あたりが最初に買ったCDだけど、何の因果か全く記憶がないが日本ではほとんど 無名のトライアンフのCDを購入した。これを聞いた瞬間、ハードなんに、この インテリジェンス感は何? 良く聞き出してから、InPの最初の成功を納めた。 最初のイントロで静かに始まったアルバムは、これまでに体験したことのない アグレッシブな 「Never Say Never」 へ続いていく(ちなみに、このオフィシャルビデオは、かなりしょぼ!)。 このアルバムを最後に、トライアンフは解散してしまうが、僕にとっては トライアンフとリックエメット(何故か彼の名前だけは知っていた けど)のファンになるきっかけだった。 (2011.2.5)

2011年1月 スコーピオンズ Sting in the Tail より 「Raised on Rock」
1983年に大阪大学に入学し、それまでのバンド活動を継続するために軽音楽 同好会に入部したけど、気の合う仲間と演奏するのはかなりヘビーな音楽ばかり。 もっと違う音楽を探していたとき、当時はまっていたパチンコをしていて、BGMで 流れていたのがスコーピオンズの「Rock like you harricane」だった。それ以来、 30年近く聞き続けてきた彼らの音楽だが、還暦を過ぎて、ついに終りを迎ようと している。ラストアルバム"Sting in the Tail"の最初の曲 「Raised on Rock」 は、これまでの曲調とは少し違うような感じだけど、良く聞くと、ルドルフのリフの 入れ方は、まさにスコーピオンズ節!。 いいですね。(2011.1.12)

2010年12月 トリート クーデ・グラー〜最後の一撃 より 「ロア」
1989年、KEKで行われたE361実験は、電子とミューオンの水中でのチェレンコフ光 の振る舞いの違いを測定しようとしていた。実験装置である1キロトンのタンクに 光電子増倍管を取りつける作業をしている最中に発表された「Organized Crime」は、 「Conspiracy」などの名曲を産み出すものの、1992年の問題作「TREAT」発表後、 解散してしまったスェーデン出身のトリートの実に18年振りの新作が、「クーデ・ クラー〜最後の一撃」である。今年3月に発売されていたのだが、全く知らなかった。 全盛期を知る者にとっては、かなりのお気に入りになるに違いない。中でも、5曲目 「Roar ロア」は、あの名曲「Get you on the Run」を越えているかもしれない。 今週のノーベルウィークに合わせて、北欧サウンドの復活に乾杯! (2010.12.5)